4.次はどんな揺れる思いに包まれるの

ある日トモが泣き崩れた日があった。

その時僕らは決意を固めた。辞めるときは一緒にやめよう。それが2人の約束だった。周りにどう思われようと、自分達を守る事を大切にしたかった。図らずも同じタイミングで移転の話が上がったので移動の為フリークスを閉じるような形にはなったが、僕らの限界と同じタイミングだっただけかもしれない。店が変わるというところに合わせるような形で僕らは退いた。その穴を埋めてくれたのが、今のヒロポンさんとケセンロック実行委員の皆さんだった事は言うまでもない。
感謝しかない。だから今がある。そのお返しは、ライブでしようと思った。インディアンナイトを続けた。が、続けるうちに徐々に集客は減り、チリも1回目の活動休止を余儀なくされ、Voiceなど新しい企画を打ち出しては集客よりも新しい他ジャンルの関係者を増やした。絵の個展とライブもした。唄風の鈴、という企画もツカちゃんとカツ君と3人で交歓イベントとしてやった。とにかく何かしらやった。UMIというユニットも立ち上げた。
その頃からTILITILI以外の曲を作るようになり、気がつけばセットリストにTILITILIの音楽が無いライブもこなせるようになっていた。
アコースティックとはなんぞや、を学んだ時期だった。1人が寂しい時は、バンドの曲をやっている時だったが、アコースティックの曲を作り始めてから1人での振る舞い方を覚えたのが、大きな進路の転機も迎えたのかもしれない。

後に復活したTILITILIのライブ。自分の中心がどこなのかわからないような気持ちも、あったような気もする。どの形を優先したくないという気持ちが、心のどこかで足枷となっていたのだろうか。その答えは今となってはわからない。ただバンド自体は、プライベートな部分でうまく回ってなかったような気がする。ライブ当日に向けてなんとかかんとか練習をして、ライブをこなすような日々。1年を通しても、メンバーが揃うのは12回前後だったと思う。まあ、そんなやり取りは我々が珍しいわけではないと思うが、自分のどこかで物足りなさを感じていたのは否めないかもしれない。創作スピードという部分の話。
それと同時にソロ活動をする中で関係者が僕に偏ってきたことも、少なからずあったかもしれない。
まあでもそこは、僕の足で繋いだ関係性であり、宝物だ。いつかそんな話も、メンバーとしてみたいものだが。

とはいえ、ライブをひとつこなす度に新しい仲間は増え、ベロニカに頼る中で、東京にもひとつの拠点ができていた。新宿御苑での出会いが、僕らのエモーショナルな気持ちを加速させたのは言うまでもない。
ハルカカナタに一目惚れした仁君を介して、新たな出会いに繋がることになる。

そしてもれなく俺も一目惚れをし、the fazz actとの出会いにまで発展する。

そしてTILITILIはというと、約束されたライブをこなすことも困難になっていった。そして僕は決意をしたのだ。

辞めよう。と。
申し訳ない気持ちに包まれた。


続く

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