その3

写真はフィリピンパブでライブ準備するthe band apart。この時が初対バン。

初めてのsunsetfreaks fesは仁君が入った年のケセンロック09の前だったろうか。タスクが居た頃は盛岡でのライブが多かった気がする。
幻のDVDにもあるが、今回参加してもらったXXXXやツカがフロントのPUNK DRUNKERSにも参加してもらって大成功に終わった。その辺りから地元でも沢山の人との繋がりが生まれた。六角ちゃんともその頃だね。
頻繁にやりたい企画だったけど、そんなに多くはやれなかった。天狗のしわざに憧れたなあ。天狗に憧れて始めたと言っても過言ではない、sunsetfreaks fes. 
ケセンロックも毎年続くような雰囲気で進んでいた。が、動員は足りなかった。関係者の皆さんが協力するかたちで何とかペイしていたような状況。これ以上は無理かもしれないというところで起きてしまったのが大震災だった。

震災があったからTILITILIの音楽に出逢えたのだろうか。全てがそうでは無いだろうと言ってくれていた仲間がいた。とても嬉しい言葉。僕らも震災の事を発信したいが為にだけでバンドをやっているわけではなかった。すこしでも音楽をしている、聴いてもらっている時くらいは、全てを忘れて楽しんで欲しいと言うのが本音だった。
初代フリークス工事、フロアの工事で朝を迎えた時
初代フリークス
新宿ロフト
それは、非現実を、というわけでは無い。そもそも非現実という言葉は無いに等しいのだ。あるとすれば夢か幻。僕らの、楽しみ悲しみ痛みなどは、全て現実なのだから。

現実の中に音楽で楽しい時間を。

それが僕の、そして僕らの真骨頂なはず。
でも、歌詞を書いてみるとそこ彼処に震災の事は書いてあった。それも現実だった。

なけなしの花の学校は、我が母校。
愛情の根、は一本松。
LIFEもそうだし、ストレスにもそこ彼処に散りばめられていた。MCだってそうだった。逆に震災を語らないMCができなくなっていた。それが現実だった。。
でも、がんばれ!とか、負けるな!とか、そういうのを歌詞にしたいと思ったことは無かった。
そこのテンションとは、ベクトルが違っていたのが本音だったのだ。足を止めたかったし、後ろを見たかった。その中で作られた音楽が、きっと今までの楽曲達だと思うと、歌詞の書き方も腑に落ちるかもしれません。

東北ライブハウス大作戦の真っ只中。
僕は人に会うのが怖くなった時期があった。
電話にも出れなくなった。
初めての人に会うのが、怖くなってしまったのだ。
トモには迷惑をかけたと思う。トモは一人で頑張った。仕事も捨て、地元も捨て。それでも俺には優しかった。それがまた、情けなかった。
娘に音楽辞めて。と言われた時初めて、諦めた。

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