その2
その2
僕は子供の頃、具体的には小学生の頃から、遊びというものを作りながら生活していた。ファミコンが誕生した時代。僕らはゲームで遊ぶ時間はもちろんあったものの、遊ぶための時間を、とにかく何をして遊ぶかみんなで話し合って毎日がイベントのような生活をしていた。サイコロで遊べる野球ゲームやロールプレイングゲームもノートに作った。
夏休みともなれば釣り針に餌をつけて朝投げて放置したまま自転車の鬼ごっこは1地域レベルの広さ。蜂の巣があればエアガンで攻撃し、追われ。どこかの逃げていたシェパードを発見してはスーパーに肉を買いに行って餌付けをし、正月には凧揚げが調子良過ぎてタコが点になるまで上げ通し、タコ糸3個使い切り空の藻屑へと消えてゆき、中学の時はエアガン銃撃戦の末神社の灯篭を破壊して職員室に全員押収され、警視庁のブルーシートの上に押収物がある絵のように職員室を彩り、(まあ他のエアガンがあったから不自由は無かったが)これをやったら大人に怒られるだろうというありとあらゆる事をやってのけた。。。
言わば犯罪予備軍だ。笑笑 いや、もう手は汚れてた。。。ごめんなさい。。。(時効)
何を言いたいかと言うと、、、 遊びを作って生活するのが当たり前だったし、誰かの真似という発想が一切無いなかで成長してきた。そんな時代だった。情報が皆、共通の量だった時代。
面白そうだと思ったことは迷わずやった。
失敗も面白かった。
大人になった今も、その気は変わっていない。
ライブにおいてもどこかで意表をつきたいと思いながらいつもいたつもりでした。田舎のバンドがディナーショーやったり、トークショーやったり。ソロの時には落語家さんも企画に呼んだ。
もっと遡れば、高田の町があった頃、真冬の夜に外でクリスマスライブをしたり、ある高校生を1人都会に送るためだけに飲み屋のマスターとライブを企画したりもした。DJなんてした事ないのにパーティーを開いたり、家で飲んでても友達とサタデーナイトフィーバーの振り付けを必死に覚えたり、ラジオにリクエストして読まれるのをラジカセ囲んでじっと待ってたり、今夜はバラードしか聞かねーぞ!って言って酒飲みながら皆んなで泣いたり。。企画じゃないかこれは( ͡° ͜ʖ ͡°)汗
どこで何をやっても、音楽がなるところには人が集まった。その集まる笑顔が大好きだった。周りにいる人が喜んでニコニコしてくれたら、それだけで良かった。伝わるかどうか、そこだけが重要だった。
そんなことばかり考えて遊んでたなあ。
そう思うと、沢山の笑顔見てきたんだなと、今改めて思い出しています。
音楽は高校の時から作ってはいたけど、それはそれは酷い内容だった。笑
大人になっていろんな人とやっては離れを繰り返していたが、高校の時ドラムだったタスクとは、ずっとやっていた。
ムラマサと対バンした時の写真。笑
懐かしい。
タスクは馬鹿なやつだったが、何を言ってもコンニャクのようにニコニコ突っ込んでくる程度の心底優しいやつだった。音楽は俺より好きだったと思う。高校の時は俺がいろいろ教えてもらっていたから。
大船渡ロックが終わってからいろいろあって離れてしまったけど、タスクが死ぬ少し前から急に再会が訪れ、無職だった彼を少しの間雇った。
他愛もない話が懐かしかった。相変わらずくだらない話を毎日しつつも、仕事の事で結局また離れてしまった。
そのあとしばらくして、タスクは死んでしまった。俺のところで厳しく監視してたら死なせずに済んだかもしれないとか考えたこともあったけど、あいつの死顔に、相変わらずずるい奴だなお前は。と吐き捨て火葬場で別れた。生きてる事は、辛いことが多過ぎる。またそんなことばかり続く時期が必ずある。だからタスクとの別れは、心の中から離別を感じた。
本当にニヤニヤした、いい顔で笑うやつだった。
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